ポーランド史を刻む二つの記念碑

1 lipca 2024 , Tagi: www.taishoshuppan.co.jp

ポーランド史を刻む二つの記念碑 (菊地マウゴジャタ・ポーランド出身)
第二次世界大戦末期の 1945 年1 月27 日、ソ連軍によってアウシュヴィッツ強制収容所が解放
されました。この日を「国際ホロコースト記念日」(ホロコースト犠牲者を想起する国際デー)と国
連が定め、毎年各地で哀悼の儀式が執り行われます。
ポーランドは 1939 年 9 月、ナチス・ドイツに侵攻され、翌 40 年 5 月にナチス親衛隊により、アウ
シュヴィッツ第1 強制収容所、1942 年にアウシュヴィッツ第2 強制収容所(アウシュヴィッツ・ビル
ケナウ)が設立されました。収容者の90%がユダヤ系と言われ、この収容所で行われた残虐行
為は、世界に周知されている史実です。
ところで、「国際ホロコースト記念日」ほど広くは知られていませんが、私の母国ポーランドでは、
2006 年 6 月 8 日に、「ナチス・ドイツ強制収容所及び絶滅収容所の犠牲者を追悼するナショナル
デー」という記念日を、6 月 14 日と定めました。
ナチス・ドイツ占領下で、設立間もないアウシュヴィッツ強制収容所に、最初に連行、収容された
のは、1940年6月14日に護送列車で到着したポーランド人だったのです。収容者(囚人)たちは、
ポーランドの南部に位置するタルヌフ(Tarnów)市出身者で、728 人の男性は、ほとんどが政治犯
でした。
現在、タルヌフ市内にはアウシュヴィッツに連行された最初の収容者であるポーランド人に関連
する二つの記念碑が設置されています。
一つは「アウシュヴィッツ強制収容所への収容
者第一次護送記念碑」で、 収容者たちが歩か
された石畳の一部は、モニュメント全体に組み
込まれています。細長いプレートのような記念
碑に刻まれた碑文には、強制収容所に連行さ
れた彼らが、ポーランドの政治犯であったこと
が強調されています。この記念碑の除幕式は、
1975 年 6 月 14 日に行われました。
もう一つの記念碑は、タルヌフ中央駅の 1 番線ホームに置か
れています。「アウシュヴィッツへの最初の収容者護送を記念
するオベリスク(方尖塔)」です。こちらは、記念日決定後の
2010 年6 月14 日に除幕されました。慰霊碑には最初の収容者
のポーランド人 728 人の名前が刻まれています。
1940 年から 1943 年の間にタルヌフ市だけでも、ポーランド人
7,000 人がアウシュヴィッツに押送されました。その後ポーラン
ド全土から、さらに多くの人びとが連行され、 収容者の人数の
増加と共に、収容所は拡張されていきました。
ポーランドでは毎年 6 月 14 日に、アウシュヴィッツ・ビルケナウにて、ローマカトリック、福音主
義協会など様々な宗教の司祭によって荘厳なミサが執り行われます。
アウシュヴィッツ強制収容所の副所長カル
ル・フリチシ(Karl Fritzsch)は、ポーランドの
収容者に対し、「あなたたちが来たのは療養
所ではなく、ドイツ強制収容所だよ。ここから
は煙突を通る以外の出口がないのだ」と冷
徹な言葉を浴びせました。
恐怖に満ちた悲しい話ですが、これはポー
ランドの歴史の一部です。
私は約 18 年間通訳として、アウシュヴィッ
ツを含めポーランド全土を周りました。とき
には通訳をしながら当時のことに想いを馳せ、胸に込み上げてくるものがありました。
時どき、ユダヤ系の方の中には「 私たちだけが殺害されたのだ」 とおっしゃる方もいます。犠牲
者の大多数がユダヤ系の方々であることは承知していますが、それだけではありません。アウ
シュヴィッツにおいて、ポーランド人を含むユダヤ系以外の様々な民族も犠牲になったことを、史
実として記憶にとどめて欲しいのです。
地上で最も痛ましい戦争という過ちを二度と起こさないために!

http://www.taishoshuppan.co.jp/20240628_Maru.pdf

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